ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q について


pixivをメインにしてこちらを全く活用しないまま一年近く時間がすぎまして。

いや、もうすいません。




ヱヴァQを見てきたんですが、いろいろモヤモヤが残っているので文章化してまとめようかと思います。




当然ながら以下ネタバレの嵐ですので未見の方はご注意下さい。








































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初見は公開当日だった。


とにかく内容を追うことに必死で、映像美を堪能する余裕もキャラクターを愛でる余裕もなく。
そもそもヱヴァレベルの映像は自分の老眼には追いきれるハズもなく。


上映終了後に一緒に見た友人と激論を交わしつつ、それでも晴れないもやもやを抱えもう一度劇場に行き、一週間ほど経過した。




…まとめにはいる。



1/ 不親切な映画だ。


エヴァンゲリオンという作品にはとにかく”考証”がつきものである。
もともと作品の設定に対する説明が不足気味、どころか全くなされないことが多く、その内容をちまちま考えるのが好きな連中でひしめいている。

自分は一切興味がない。




それは庵野秀明自身が、「この演出方法は『衒学』なんですよ」と宣言していることも理由の一つなのだが、そんなもの気にしなくても人間関係だけで話を理解できたからだ。



しかしQはわからなかった。セリフを追って言葉を理解しないことには、今何が起こってどこに進んでいるのか理解できない。


ミサトとリツコが率いるWILLEなる組織もNERV=神経、seele=魂、WILLE=意思という語意の対立構造を理解していないと、何をしているのかわかり辛くなる。

アダムスの器を初めとする単語は、カヲルのお喋りでも多用されている。中盤以降のシンジに対するカヲルの語りかけはほとんど内容が伝わっていない。首輪で爆散するその寸前まで一人語りを続けるカヲル。「何を言っているのかわからないよ」と叫ぶシンジ。


14年後の世界に目覚めてしまった碇シンジは当惑する。説明を求める。だが誰も教えてくれない。それは観客も同じことだ。シンジと一緒になって「この人たちは何を言っているんだ?」と頭を悩ませるハメになる。



意図的な難解さであると同時に、中身を理解しないことには話が進まないというタチの悪さ。
エヴァンゲリオンほどのブランドでなければ観客は耐えてくれないと思う。







2/ ”シーン”の切り貼りになる映画の魅力と危険性


これは各所で散々に言われている。



設定が詰められている映画ではあるが、シナリオ上の整合性はとことん犠牲になっている。
あんまりそういった点が気にならない自分でも少し異常に思えた。


DSSチョーカーのCG映像をバックにリツコは「シンジのシンクロ率は000.00%」と言い切った。
終盤シンジは何事もなかったかのように13号機に乗り込み、搭乗中にカヲルの接続を遮断して一人で操縦しているのである。

「カヲルがいたから」ですませるにしても理屈が通じなさすぎる。コアにユイがいるでもないのに奇跡がほいほい起きるとは思えない。


そもそもシンクロ率の説明は必要だったのか?
「フォースインパクトを起こす兆候が見られたらこの首輪で爆死させます。エヴァには乗らないで下さい」で十分だったはずだ。




あのセリフが持つ役割はただ一つ。カットの引き締めなのだ。
爆死の危険性を訴えるよりも「あなたのシンクロ率は0」と言い切ることで観客に必要なインパクトを与えられる。0と言い切られることによって見る側が安心するのである。




設定の濃密さとシナリオの不整合の抱き合わせ。
この演出が成功する鍵はただ一つ、カットとシーンが魅力的であることだ。

Qの映像美は絶賛されている。


しかし見続けるのがキツイ内容だった。

シーンの展開が少ない、あったとしてもほとんどが説明ゼリフのオンパレード。中間に山ほど尺を盛り込んだシンジとカヲルのイチャラブ(?)展開。
エヴァ独特の会話は一方的な説明の後、キャラクターの個人的な心情を吐露させて肉感を盛り込むことだった。それもない。

シンジと同じ情報を観客に共有させ、さらに閉塞感も共有させるために演出は平坦だ。
加えてカットの色合いそのものがほぼ赤。
色彩の乏しさも平坦さに拍車をかける。
初代ガンダム並の色鮮やかさがエヴァの武器の一つだったはずなのに。

カットが地味になるだけで、こうも見辛くなるのか、と驚愕してしまった。






3/ なんでまたシンジを追い込むんだ?




そろそろ面倒な話はやめようと思う。




自分がリアルでエヴァンゲリオンを見たのは12歳のときだ。

今結構に年を食ってしまった。
その過程で旧エヴァが、「自閉症のような少年碇シンジの物語」ではなく、「周囲の大人によって何度這い上がっても叩き潰される少年碇シンジの物語」だと気付いた。


いつしか、一人の観客でありながら彼の身を案ずるようになった。
陳腐な言葉を言えば、親のような気持ちを持っていた。


序、破と見続ける過程で、旧番のままならなさを知っている自分は、安堵のような祝福とも言える様な気持ちを抱いた。



シンジはスタート地点からあまり変わっていない。

大人達が、特にミサトが違っていた。

むずがる彼の手を引いて、自分達の戦う意義を見せた。子供とかかわることは、どんどん無様に自分をさらけだすことだ。

3号機暴走事件のあと、弱々しくもシンジを引き止めたミサトの心は伝わっていた。

レイを助けるときも「いきなさい!」と言ったのはミサトだった。




Qまでの14年の間に何があったのかは知らない。
だけどミサトはシンジを呼び戻した。
DSSチョーカーの起爆スイッチを押せなかった。
それならどうしてシンジを突き放したんだ?



最終話に向けての伏線にしても。起承転結の転なのだとしても。

あんまりだと思ってしまった。 
これがQに抱いてしまったもやもやの最大の原因。



ミサトさん、あんただけは絶対に手を離しちゃいけなかったんじゃないか?


ネグレクトだめ、絶対。




4/  アスカという救い



この映画にアスカがいなかったら、と考えると本当におそろしい。


もちろん彼女はシンジをガキとののしるばかりで追い込む一要因にしかなっていないのだけど。
ミサトのかわりに彼を最後まで追いかけてくれたのはアスカだった。



ただ見捨てられていたのは彼女も一緒だった。
シンジは姿の見えない綾波を追いかけて行ってしまった。




カヲルを失ったショックで動けないシンジに


「私は助けてくれないんだ?」と問いかける姿が切ない。

だから絵を描いてみた。






5/  雑書き



冬月さんがシンジのお父さん説とか色々出ているけれど、あまり気にしないで次回を待とうと思う。

黒波さんがぽか波さんよりもずっとワンコワンコしていてかわいらしい。
序盤のヴンターで若者年寄りの隔絶が描かれていたのは次に期待。


カヲルくんはもっとタレ目でいいと思う。
「元気すくないね」はきゅんときた。


ゲンドウさんサイクロップスになってたけど改造人間になっちゃった系?


マリちゃんの必要性がいまだに見えてこない。

新規プラグスーツとコネメガネから察するにアスカは初代マン。マリはセブン。
と特撮オタクに言われた。そうらしい。


作画が貞元絵というよりぼくらの?鬼頭っぽくて違和感。率直に言うとかわいくない。







最後に

ナディアのBGMでテンションが上がりすぎてこまった。
こんなにナディアが好きだったのかとびっくりした。