今さら映画スカイ・クロラの話しようと思うよ。長文で。


僕は押井守の大ファンである。と前置いておく。


08年のこの映画の話を何で今…?

実は公開直後、mixiに感想を載せようとしたんだけど、やめた。

なぜかというと、一度視聴した限りでその映画から読み取った情報は、すべからく監督本人や、脚本家、プロデューサーやコメンテーター達が丁寧に何度も何度も解説してしまっていて、今更自分が言うことなど何にもないと本気で思ったからだ。



この映画を自分の家でしっかりと見直すことが出来た今、自分にしか書けない情報が見えてきたので、今回それをまとめてみようと思った次第。

ネタバレあり。お気をつけて。
ストーリー解説や人物の紹介は省きます。




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1.表情の話

 
 ユーイチは現実をぼやっと受け流しながらも、日常を謳歌(いい言葉がみつからない)している子供。窓を開けて風を受けるときの朗らかな顔はそれを一番端的に表している。序盤と合わせて二回も同じ「窓開けシーン」が出てくる。


 だが水素は違う。
 外で風を受けていても、彼女は決して表情を崩さない。執務室の椅子で火のついていないタバコを咥えて外を眺めるシーンはこれまた象徴的で、ユーイチの窓開けシーンと同じく映画の中で二度描かれる。

 
 対照的な二人が、言葉に頼らず表情で対比されているいい好例だ。

 
 


 他にも、特に主人公、水素の表情には目を見張るものがある。

 笹倉が三ツ矢に言った台詞にも少し表れてくるが、水素は戦争で死なず、他人に鑑賞することを知り、自分の達の人生の位置づけがただ停滞と繰り返しであるということを永遠の地獄だと理解してしまった子供だ。
 他の登場人物がキルドレとして疑問を持たず、またそれをぼやかして日常を謳歌している中、水素だけは無表情のまま、空をじいと見つめている。…勝手な印象だが、僕には水素の無表情が、怒りにゆがんだ表情に思える。

 この表情は変わらない。上層部に怒りで電話をかけるシーンも、かわいそうと呟く一般人を怒鳴りつけるシーンも、泥酔して戯れに紅などさしてみた時も、口元だけは動くが表情は変わらない。彼女はあくまでも頑なに、人形じみた表情でい続ける。

 それがラストシーン、ユーイチの言葉によって壊される。自分が死ぬ以外に道はないと思っていたのが、逆に「君は生きろ。何かを変えられるまで」という言葉が突き刺さる。その瞬間彼女はゆがんだ無表情を引き裂かれて、キルドレのまま、子供のままの、汚い泣き顔をさらすのである。

 このシーン、菊地凛子の演技があまりにもたどたどしく、それがとてもイノセンスに満ち溢れていて、心から涙した。「えっ!?」と思われるかもしれない。菊地の演技は公開当時からあまりにも酷評されており、このシーンでも「演技のせいでシラける」と散々に言われているのだ。

 逆だ。水素が感情を噴出させるシーンは、声音が意図的に制御されて演出されたものであってはならない。「いい演技」でも「うまい棒」であることも許されない。へたくそな子供の聞くに堪えない演技でなければ、水素を表現できないのだ。

 菊地の声とイントネーションは、びっくりするほど中学生くらいの少女のそれに酷似している。感情的になればなるほどひっくり返り、抑揚を失い、聞くに堪えないその声だからこそ、この映画の演出は完成されているのである。

 この二つの繊細な演出に、公開当時気付けなかった。
 映画館のノイズ交じりのスクリーンと割れてばかりの音響で気付いてたまるかととも思うが。



 ユーイチが消えた後、新たにやってくる次の彼を迎える水素の表情は、とても柔らかく、声にも余裕がでてきている。

 とてもわかり辛い上に、一度見ただけでは絶対に気付かない演出だと思うが。この水素というキャラクターの微妙すぎる表情変化は押井映画の中で最高クラスの緻密さを誇ると思う。

 DVDならブラウン管、ブルーレイなら大型液晶で是非確認していただきたい。






2.手と手

 暗いとか、人間味がないとか散々言われる押井映画の中で、最も肉感的かつ感情に溢れた表現技法が一つある。

 それがパト2から始まる手と手の触れ合いだ。攻殻では義体というモチーフ上省かれているが、人狼(監督は彼じゃないけどさ)、そして今回のスカイクロラでは細密に描写されている。

 泥酔した水素と素面のユーイチが車の中で交わり始めた後、カメラは拳銃を抱えた水素の手とそれを抑えるユーイチの手だけを映し続ける。放っておけばいつ引鉄を引いてしまうかわからない水素を止めるために、ユーイチの親指はハンマーにきつくあてがわれ続け、決して離れない。一度力を緩めかけてまた握り締めるという動きまで表現されていて、「原画と動画どういうことなの…」と戦慄した。

 ただこれ、大方の人には「なんでここばっかうつすん?」とか「ええい、手はいい!カラミを映せ!二人の濃厚なカラマリ具合を!」とか突っ込まれてそう。


 中学の時初めて見たP2で、南雲さんと柘植の手が、一度触れながら戸惑い、堰を切ったように深く絡まりあうという演出に深く感動した。その再来だったと自信を持って言える。


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後は一押井ファンとしての雑感。


押井作品には、その見辛さ故に「誤読」がつきまとう。

作品として込められているメッセージはとてもシンプルなのだが、演出と美術と、何よりも台詞がややっこしいからだ。


スカイ・クロラはただ単純に「何も変わらない汚らしい日常は受け入れなくちゃいけない。その上で人生を選択し、受け入れること。それが大事」ということを描いた映画だ(ざっくばらんすぎるが)。


それは所謂若者に向けられた「暖かな」メッセージなのだけども、メッセージそのものがまず伝わりにくい。

自分の人生に希望を得るために、変わらない、変えられない日常を受け入れろと言われて、納得できる人間は少ない。

多くの人は、自分の可能性の全てを否定された気がしてしまうだろう。





そして客の前に次々さらされるネガティブな映像たち。


主人公っぽいユーイチが死んでる時点で「ハッピーエンドじゃないのに希望もへったくれもあるか!」と言いたくなるだろうし。


人生が酒とタバコとセックスのような汚らしいもので装飾されているなんて誰も信じたくないだろうし(これに嫌悪感を抱く人は本当に多かったみたい)。もちろんこれは汚らしさや現実逃避、依存のモチーフであって、客に不快感を味合わせるのが狙いなので真に受ける必要はない。リアルにするなら、ひきこもってネットとかひきこもってゲームとかエゴ満載の恋愛とかかしら。
帰ってきて即ビール!じゃなくて帰ったらPC電源オン!電車乗ったら携帯でミクシとブログとツイッターチェック!なんてのと一緒。


極め付けにこれでもかというくらいのっぺりした展開が眠気を誘って大方の人間が首をひねること間違いなし!ああ見辛い見辛い!



さきほど「誤読」と書いたが、悪意を持って言うなら「手前勝手な解釈」が押井映画の周りには蔓延している。何でってそりゃー作品がわかり辛いからさ!わかってほしけりゃ易しく作ればいいのに!とか言われてしまうのは重々承知。






だがな。この映画は見辛いが、決して意味のない駄目作品じゃないんだよ。


わかりにくいだけで無駄なシーンはない。のっぺりしているだけで冗長ではない。危険なモチーフが多いのは、それによって表現したい明確なものがあるからだ。




なんか本当に、押井ファンをやっていると客とマニアと作品の剥離具合に辟易してしまう。

普通なんだよ!押井は!長いこと中二病を過ごして、生き死にに片足突っ込んで、体鍛えたら精神も健全になっちゃったってだけの、ただのおっさんなんだよー!たのむからわかってくれよー!




映画館で見終えたあと、近くに座っていた女性客が呟いた言葉を今でもおぼえてる。

「言ってることはわかるけど、何が言いたいのかわかんない」

お嬢さん、あなたは正しい。と僕は静かに納得しつつ軽く凹んだ。